朔望
Syzygy 第二稿左へスクロールして読む一 朔
ゆらいでいる。海面は虹色にゆらぐ格子状の光。一瞬で消える文字を高速で随筆しているような、書き殴りのような光もある。透明な塩水の香り。腹部に水圧を感じながら、岸に背を向けて、沖へ進む。百八十度に水紋が広がる。ゆらぎを受け、おくっている。
首まで海に浸かる深さになって、立ち止まる。爪先だけが砂に触れている。そのとき、砂浜から中村の怒号が聞こえる。
「気持ち悪ぃんだよ、このストー……」
言葉が聞こえきる前に、爪先を離して、背中を海に預ける。
一切の音が消える。一瞬時間が止まって、低速な時が流れる。力を抜くほど、しっかり浮く。
これは等級も、検問も、認証もいらない、いちばん古いTiMEだと思う。浮かんでいるあいだだけ、僕の時間は僕のものになる。
風と海の流れに身を委ねる。漂流物になれる。身体がちゃんと物理法則の通りに、自然にぞんざいに扱われていることの穏やかさ。
事が済んだタイミングを見計らい、海底に足をつけ、砂浜まで歩く。
タオルで軽く身体を拭い、用意していた制服に着替える。中村はそれをじっと見ていた。
阿久原はいつものように全身を砂に埋められ、口だけが露わになっていた。砂から出る直前に見えた彼女の腕は、折れた白い枝みたいに細かった。埋められた口元は、抗議するでもなく、眠りの初めみたいに、かすかにやわらいで見えた。
敷島は砂の付いた手を海で洗い「今日も封印完了」と笑った。敷島は、沈黙が怖いから一番に笑う。笑い声だけが大きくて、目はいつも所在なさげだった。家業の民宿を継ぐことが決まっていて、彼には決まった未来だけがあった。
阿久原を横目に僕らは登校する。中村は去り際に「遅刻するなよー」と彼女に言った。中村の目は、いつも僕を経由して阿久原を見る。そして僕は、一度も中村を見ない。「ほら」と言って中村からもらった缶コーヒーも、飲まずに無言でカバンにしまい、一人で登校する。
焼き杉の黒い木造家屋が連なる路地を抜け、大通りに出ると、ホバリングして立体映像を映す広告ドローンから、街のニュースが聞こえる。
「網野町を含む伝統時間保存流域の住民による連合組合は、低速流域との時間格差について、本日も総務省前でデモ活動を行いました」
映像では反重力で浮いた総務省スフィアの前で、警備ドローンとデモ隊が対立して議論していたが、やがてドローンから低速銃で撃たれ、住民の身体が、噴水の水が空中で止まるみたいに、ゆっくりと静止していく様子が映し出されていた。
「まーたデモなんかやっとるんかいな」と声が聞こえ、通り過ぎたドローンを振り返ると、朝まで飲んでいたのであろう初老男性たちが、映像を見上げていた。父の飲み仲間たちだった。
「こんなんやったかて無駄やろ? 俺たちには今しかねぇ」
「あーそうやな。それが恵みってもんやしな」
一人が僕に気づいて、手を挙げた。
「おー、一太くん。親父さんによろしくなぁ。ほんまにええ人やなぁ、あんたの親父は」
僕は会釈だけを返した。この街で父を悪く言うと、先に僕の方が悪者になる。
前方の上空のドローンからは、別のニュースが流れていた。今年の夏は三重惑星合といって、火星、木星、土星が接近して夜空に三角形を作る、特別な天体イベントがあるとのことだった。子どもの頃に流行った都市伝説を思い出す。——三つの円が並ぶ夜、海底の門が開く。その先の三角に四角い玉匣あり。開けしもの時を超えけり。だっけか。この街での与太話の類は、いつもこの地に根付く、浦嶋子の伝説と混ざっていた。
白い校舎、白い廊下。一つも汚れがない、入学時から何一つ変わっていない、白いだけの教室に入る。
チャイムが鳴って、白い椅子に座ると、担任がホームルームを始める。
「はい、おはようございます。えー……阿久原は今日も遅刻か」
敷島が中村の方を見てニヤついているが、中村は真っ直ぐ前を見ていた。
「今日は、TiMEができてから十周年です。文科省のおKaMiから、時間流域と時間感覚について復習するよう指示があったので、皆に聞いていくね」
「まずはー、高橋さん。時間流域と時間感覚について、説明してもらえるかな」
高橋さんは何を今さらというような表情で、一息に話した。
「時間流域は、同一地平面で物理的に異なる時間の流れを作る時間操作技術とその名称。時間感覚は、主観的な時間の流れを操作する技術です」
「さすが。大正解」と担任が拍手して称えると、彼女は怠そうな表情から笑みが溢れていた。
「じゃぁ次に、横山さん。今はそれぞれ、主にどんな技術が使われていたっけ?」
「えーっと、時間感覚は、TiMEでしょ? 時間を早く感じたり、遅く感じたりできる。時間流域は、重力と反重力が何たらかんたらで……」
不安そうに答える彼に、担任は微笑みを送って答える。
「大丈夫。あってるよ。時間流域は人工重力と重力シールド技術で重力場を形成し、様々な速度の時間流域を作っています。更に復習すると、時間の流れはGravitimeを略してGtと表記して、伝統時間に比べて高速であればGt+1、低速であればGt−2などと表記されます。それとー、毎年ここで間違える人がいるので言っておくと、呼び名は立場で裏返ります。外から見れば高速流域でも、中の人にとっては、外の世界がほとんど止まって見える、ゆったりした低速の街。どちらの呼び方も正しいので、制度は必ずGtで呼ぶんでしたね。要はこれらの技術や制度により、世界は多時間共存が当たり前になっていきました。時計や暦の自由化、物理的に時間を引き延ばす低速都市や、高速都市の誕生。まぁ、時間というものを人がコントロール可能になった、初めての時代というわけですね」
僕の目の前の席で、手が挙がる。
「せんせー、それなのにうちらだけ伝統時間保存流域とか言ってTiMEが使えないの、やっぱり不公平だと思いますー、なんとかして」
周りは同調するように笑って、なんとかしてー、と同じようにやじる。
「なんとかしてと言われても、おKaMiが決めたことだからなぁ。人間じゃ理解できないが、重要なことってやつでしょうね。はい、復唱。KaMiは——」
「まちがえませーん」と、教室の半分くらいが、気の抜けた声で唱和する。幼稚園から言わされてきた文句だ。誰も意味なんて考えていない。
「それにまぁ、高速時間流域の人たちからしたら、僕たちは低速時間の住民です。時間も幸せも相対的なもので、隣の芝はいつだって青いものです。大事なことは、じっくり今ここの豊かさを感じること。さて、では昨日の続き、ループ量子重力理論からはじめましょう」
学校は嫌いだ。時計の針が一秒で一つ進むみたいに、言うこともやることも既に決まっていて、その単調なビートにトランスして、ループの快楽に溺れている。そうやって、うちの親みたいなのが作られる。
開け放たれた窓からは潮風の香りがする。海も空も、同じように青い。波止場には何人かの観光客が佇んでいる。変わらない西暦、変わらない時間、懐かしく伝統的な標準時間を求めて。この街の海では、よく見る光景だった。
一二時、昼休み。教室のドアが開く。阿久原が教室に入り、背中に砂がついているのを、いつものようにクラスが笑い、いつものように、僕の席までやってくる。
「伊鶴一太、おはよう」
「フルネームで呼ぶのやめてもらっていいですか、阿久原三津さん」
いつものやり取りに、また笑いが起こる。
「分かった。伊鶴くん、共に昼食に行かないか?」
「行かない」
阿久原は表情を変えずに振り返って、再び教室の外に出る。断られることを、傷とも思っていない歩き方だった。その際床に落ちた砂は、清掃ドローンが即座に検出し、掃除した。
一六時。生徒指導室の窓から、阿久原と担任の姿が見えた。
「阿久原、お前そろそろ歴代の連続遅刻記録更新するぞ。なんか事情があるなら聞くから、そろそろ教えてくれよ、な」
「テストは満点。大学に行くつもりもない。これ以上、君が気にすることはあるのか?」
相変わらず、なんて横柄なやつなんだ。そのくせ、僕にだけはやたらと絡んでくる。そしてなぜか、それに中村が苛立って、いじめに発展している。敷島が慕っているから仕方なく付き合っているけど、あの時間は本当に無駄だと思う。
二〇時。家で一人で夕食を食べていると、玄関のドアが静かに開いた。この時間にあの人が帰ってくることは珍しい。いつもは大抵、朝だった。
「おー、一太。今日も生きてるな」
長髪の白髪に長い白髭、日に焼けた顔。乱れない足取り。深くゆっくりした呼吸。父は酒を飲んでいても、囲炉裏の火みたいに微笑みが安定している。部屋に入ってきた途端、酒の匂いと、線香みたいな落ち着きが同時に充満した。父は僕の背後から両肩に、感謝を込めるみたいに触れた。
「酒代が切れた。分けてくれ」
「もうないよ」と僕は言った。
父は僕の向かいに座って、手を組んで、僕の目をまっすぐ見た。説教でも、脅しでもない。凪いだ海みたいな目。
「一太。金っていうのはな、過去なんだ。過去を貯め込むから、人は今を生きられなくなる。内陸の連中を見ろ。時間を貯めて、貯めた時間に食われてる。俺たちには今しかない。今しか、ないんだぞ。それは罰なんかじゃない。恵みだ」
父の言葉はいつも、半分まで本当だから始末に負えない。そして徐々に呂律が回らなくなった舌で話を続けた。
「いいか、この土地は元伊勢っつって、イザナギ様ー、イザナミ様がー、いらっしゃった。と言われている。もっと古い名は、えー、なんだっけか……まぁ、いつの時代からも神聖な……」
僕は父の話の途中に、将来この街を出ていくためにバイトで貯めたお金だと、正直に話した。
父は悲しそうな顔をした。本当に、心の底から悲しそうな顔だった。憐れむような。祈るような。それから静かに立ち上がり、僕の頬を、振り抜くように叩いた。怒りのない、手入れの行き届いた暴力。椅子ごと傾いだ僕の耳元で、囁くように言った。
「目を覚ませ、一太……送れ」
僕はもう交渉の余地がない、時間の無駄だと思い、腕につけたデバイスに呼びかけた。
「父さんに五千円送金して」
「生体認証確認。かしこまりました」とデバイスからAIが応答する。
「偉いぞ。それでこそ俺の息子だ。俺もな、死んだ母さんに何もしてやれなかった。……と言っても、お前には母さんがいないから、この話は分からんか」
父は小さく笑って、僕の頭をくしゃくしゃにした。
「今夜は月が綺麗だ。あとで見とけよ」
鼻歌が、玄関の向こうに消えていった。
僕は再び食事を始めた。食べていると、自然に涙が流れてくる。初めは、これが何の涙なのか分からなかった。悲しみではなかった。怒りとも、少し違う。人工子宮から父親の遺伝子のみで生まれた僕は、あの人の「今」を分かち合う相手として作られて、そして飽きられた。それでも長いあいだ、これが普通の親子だと思っていた。バイトをして、自由に使えるお金ができて、小説や映画を見れば見るほど、これは普通ではないと知ってしまった。
でも、涙の理由は、たぶんそれでもない。
この家で起きていることを、僕の代わりに見ていてくれる人が、世界に一人もいない。あの平手を、暴力だと呼んでくれる証人が、どこにもいない。街じゅうが父を好きだから、これは僕の中にしか存在しない出来事で、僕の中にしかない出来事は、この世界に、なかったことと同じだった。
どちらかといえば、知らない方が良かったと思う。
食器を片付けて、二階に上がる。青いものだけが置いてある部屋の、青い椅子に腰掛け、パソコンを開く。
書いている間だけ、時間が僕の側に流れる。誰に教わったわけでもなく、気づいたらそうしていた。ノートの端、デバイスのメモ、風呂の中。頭の中で誰かが生きはじめると、この街の一秒針が聞こえなくなる。そして書いたものは、読まれない限り、父への涙と同じだった。僕の中にしかないものは、世界に、ないことと同じ。だから賞が欲しい。賞金でこの街を出たい。正規のTiMEに触れる資格が欲しい。それは全部本当だけど、たぶん一番下にあるのは、もっと単純で、もっとみっともない飢えだ。
読まれたい。誰かに、僕の時間がここにあったことを、見ていてほしい。
今日は、応募した小説の新人賞の発表の日だった。ページを開く前に、ふと「アキレスと亀」の話を思い出す。アキレスは先を行く亀に追いつけない、でも実際は逆だ。僕は、先にいる方のアキレスに追いつけない亀だった。彼らは僕より前にいて、僕より速い。低速流域の作家たち。外の一日で、何年分も書ける人たち。何年分も、失敗できる人たち。僕が一番ほしいのは、たぶん才能じゃなくて、失敗する時間だった。
案の定、受賞者の多くはHOURaiやそれに次ぐ低速流域の出身者だった。
しかし、自分の投稿作品に二件目のレビューがついていることに気づき、開く。星は五個。でも全く的外れな感想で、より孤独を感じた。読まれることと、見られることは、違うのだと知った。
力が足りない。時間が足りない。今日過ごしてきた無駄な時間が、足元から這い寄るように身体を黒く腐らせていき、僕はそれを止めるために抽斗を開けて、注射器を手に取った。
低速ドラッグは、学校の裏で回ってくる程度には近くて、打っていると誰にも言えない程度には、遠い。この街の若さの、公然の秘密。
小瓶を開けて、スポイトで薬液を注射器に移し替える。左腕の裏を摩り、太い静脈に針を刺す。少しずつ麻酔が効いていくみたいに脳の痺れを感じ、心拍が低速になっていく。鼓動は間延びしたように深く響き、血液が穏やかな川のように、体内を巡る意識が映し出される。吸う息は岸に到達する波のように遅く、息を吐く間に、今日の感情の整理と、これからやるべきことの洗い出しと、今から書いていくシーンのプロットと、登場人物の設定を高速で思考し、物語の続きを書き始めた。
〝目覚めると1/fのゆらぎを送風する空調機が、天井から吊るされたLEDをぶらん、ぶらんと大きく揺らしていた。光が点から線になっていく様をぼうっと見つめていた。線のように見える残光は実存せず、気づかぬうちに消えていく。それ自体がそもそも不在だったかのように、アーカイブもされず消えていく。
手足を開いたり、閉じたりして、身体の感覚が現実に戻ってきたことを確認する。部屋を抜け出し、エレベーターで屋上階へと向かう。透明な筒のエレベーターは、昇り始める最初だけ、身体が宙に浮くような不思議な感覚になる。
ドアを開けると夏風が頬を包み、空輸ドローンが空を切り裂く音が通過する。照は目の前に広がる空に向かってまっすぐ歩き、ふちで立ち止まる。
「それじゃ新山くん、続きはあっちの世界で」
と言って、ビルから飛び降りた。
新山が柵に駆け寄ったとき、空にはもう誰もいなかった。地上にも。ただ夏風だけが吹き上がってきて、街の底からは、いつも通りの朝の音がした。回収ドローンのサイレンは、いつまで待っても鳴らなかった。あっちの世界、と新山は口の中で繰り返す。その言葉は飴玉みたいに、いつまでも溶けなかった〟
七時。低速ドラッグの副作用で眠れない中、ぼんやりした時間感覚を調律しに、登校時間より少し前、父が帰ってくる前に家を出て、海に行く。引き延ばしたはずの昨夜の時間は、朝の光の中で濁っていて、書いたものの半分は、自分の字なのに読めなかった。
制服を脱いで海に浮かんでいると、徐々に眠気がやってくる。微睡の中で子どもの頃に聞かされた流宮の夢を見る。そこは時間が流れないとされる架空の場所。もしこんな場所が実在したならば、僕はいつまでも、納得いくまで書き続けられるのにと夢想していたところ、太陽の強い光で目が覚めた。砂浜を見るといつものように阿久原がやってきていて、体育座りで僕を眺めている。
中村と敷島もいつも通り遅れてやってきて、中村は「お前もういい加減付き纏うな」と阿久原に言った後、鞄を漁って、注射器を掴み出した。
「打て。お前がやらないなら、伊鶴に打つぞ」
彼女はすぐさま自身の左腕に針を打ち込み、その場に横たわった。
朝のホームルームでは、高速流域に旅行に行っていた同級生が、今日卒業することが知らされた。一ヶ月の旅行から帰ってきた彼は、既に三年以上歳をとっていた。
あとから聞いた話だと、量子サイクル系の企業に勤める彼の父は、夏休み毎に高速流域で三年分バカンスをするらしく、こっち側ではすぐに進学してしまうとのことだった。
内陸の多時間世界といえども、物理的に時間速度の異なる流域に滞在するのは、相当なコストがかかる。うちでは絶対にできないし、そもそも、こっちの世界で生き急いで優位に立っても仕方がない。僕はHOURaiのような超低速流域に行って、悠久の時の中で、誰もが認める傑作を書きたい。
そう思いながらも、モニター上の時計は、今日も一秒に一つ、針が進んでいく。
十八時。家に帰りたくなくて、なんとなく立岩まで、街を巡回する無料の無人タクシーに乗り込んで向かった。空は寒色と暖色を全部混ぜたようなグラデーションで、日が沈み切る間際にいた。一日でいちばん、空が色を持つ時間。凪ぎはじめた海は空をそのまま写して、水平線だけが銀色の糸みたいに残っていた。
立岩は、浜から海へ突き出した黒い背びれのような一枚岩で、この中には、鬼が封印されているという伝説が残っている。岩の先で浜は途切れ、細い入江を挟んで、対岸にもう一つの砂浜が続いている。
砂浜を歩いて立岩の方へ向かうと、その対岸に、人のシルエットが見えた。目の前には一本の笹が砂に刺さっていて、そこに垂が吊るされていた。立岩に着くと、登れそうなルートを探して、小高い場所まで登って座る。海風に吹かれて、岩から落ちる不安を感じる。波は容赦無く岩を打ちつけている。移り変わりゆく空の色、その昏れに向けてデバイスのライトを一瞬つけて、もう1回長めに光を放った。
対岸のシルエットは女性らしかった。白いペプラムに黒のショートパンツ、長い黒髪の女性が一人、体育座りで立岩を見ていた。
やがて彼女は立ち上がり、海の中へ歩いて行った。足までつけたところで、口元に指を添え、シャボン玉を吹いていた。日は徐々に落ちていき、彼女の輪郭も少しずつぼやけていく。無数のシャボン玉は風に流れて、僕の方にも到達して、そのまま昏くなりゆく空のグラデーションに流れた。ひとつとして、同じ形のものはなかった。
砂浜と砂浜の間は波が打ち消しあい、銀河のような渦模様をつくっている。三つの街灯が、海に浮かぶ月のように映っている。
会話はなかった。合図もなかった。ただ、同じ波の音を聞いて、同じ暗くなっていく空の下にいて、相手が帰らないから、僕も帰らなかった。それだけのことが、どうしてこんなに、静かに満ちているのだろう。家にもない、学校にもない種類の時間だった。誰かと、同じ時間の中にいる。ただ、それだけのこと。
やがて後方から、男たちの友人グループと思しき、戯れた声がした。そうすると彼女は砂浜へ上がり、自転車を押して松林の方へ帰っていった。
空には夏の大三角形が一つと、もう一つ、ぼんやりと三角形が浮かんでいて、僕はなんとなく、けれども確信的に、彼女と阿久原の姿が重なった。
すごく久しぶりに、誰かと共にいたと思えた。
翌朝七時。中村たちが来る前に海からあがり、砂浜に座っている阿久原まで向かう。その間、三回深呼吸をした。少し手前で立ち止まって、唾を飲み込んだ。
「……あの、もしかして、昨日の十八時頃、立岩にいた?」
「いた」と阿久原は言った。感情の読めない、事実だけの返事。でも、目だけが、わずかに嬉しそうだった。
やっぱり、と僕も嬉しく思った。でも、それは言えずにいた。次の言葉に詰まる間、阿久原は次の僕の言葉を待つように、目を離さないでいる。急かさない。何時間でもこうして待てる、という静かさだった。
「……どうして、僕に付きまとうの?」
「近くにいたいから」と阿久原はすぐに答えた。
「なんで?」と僕もすぐに言った。
「助けられたから」
助けるどころか、いじめの共犯者の僕に、その言葉が当てはまる節が見つからず、ポカンとしていた。
「私は、君の書いた小説に助けられた」
「え、え、なんで知っているの……誰にも知られてないと思ってた」
「全部、読んでいるよ」
結んだ口が解けてそのまま照れ笑いが出そうになって、口を固く結んで、海の方を見て調律した。後頭部から阿久原の声が聞こえた。
「隈がすごい。寝れてないのか?」
僕は触れて落ちるものでもないのに、目の下を触った。
「もしかして、もう打ち始めているのか?」と阿久原は続けた。
それが何を指しているのか分かっていたけど「指してるって何を」と言った。
「あれはやめた方がいい。睡眠障害は体に毒だ」と彼女は見透かしたように言う。
なんのことだかと誤魔化そうとも思ったけれど、昨晩の心地がふと蘇り、口が解けた。
「時間が足りないんだ。このままじゃ、いつまで経っても、低速流域の作家に勝てない」
「とは言え、低速ドラッグを打ったところで、向こうの時間と同じ流れになるだけで、既にある差は埋められない。それに、あれで引き延ばした時間は、朝には濁って、ほとんど手元に残らないだろう」
そうだと分かっていたけど、言ってほしくなかった言葉を言われて、僕は顔を伏せて沈黙した。
「じゃぁ、行く?」
僕は顔を伏せたまま「どこに」と言った。
「無時間流域、流宮」
流宮は子どもの頃に少し流行った、時間が止まっているとされる都市伝説の場所。そんな場所、現代の技術をもってしても、物理的にあり得ないと分かっていた。
「何言ってるんだか。そんなのあるわけ……」
「あるんだよ、流宮は。私は知っている」
思考を読まれたかのように、言葉を被せてきた。得体の知れない彼女だからこそ、得体の知れない説得力があった。
「じゃあ、連れて行ってよ」と僕は冗談のつもりで言う。
「よし、では明日の休日から行こう! 二日間」
語気が、跳ねた。穏やかというより、平坦な人だと思っていたから、僕は少し驚いて彼女の顔を見た。こういう表情も、あるのか。
「本気で言ってる?」
「うん」
「……遠いの?」
「伊根の先にあるよ。道が開くのは、三重惑星合の夜だけだ。今年を逃せば、次は十九年後になる」
ドローンのニュースが頭をよぎる。夜空の三角形。海の底の門。与太話が、彼女の口から出ると、予定表みたいに聞こえた。
「ただ、せっかくの旅だ。内陸の他の時間流域も経由して行かないか」
行きたい、と思った。強く思った。この街の外の時間を、一度でいいから、この目で見たかった。でも僕にはその権利も、お金もないと考えていたところ「大丈夫」と彼女は言った。何が大丈夫かは分からなかったが彼女の顔は自信に満ちていて、僕は「まぁ、行きたいなら」と言った。「行きたい。では明日七時に、またここで」
二 弦
それから僕らは本当に旅に出た。
旅の資金は阿久原が「実は私は大金持ちなんだよ」と言って出してくれた。
「親がいい仕事してるとか?」って聞いたけれど、両親はもともといないと言っていた。僕と同じ境遇なのかもしれないと、それ以上は触れなかった。ただ、彼女が財布を出すところを、僕は一度も見ていない。会計はいつも、僕が気づいた時には済んでいた。
駅のホームでリニアを待っている間、阿久原は売店で買った文庫本を開いて、閉じた。「もう読み終わったの」と聞くと「もう読み終わった」と言った。そのあとは駅を行き交う人々の様子を楽しそうに眺めていた。
町長の心拍数を一秒とする街でリニアを降りた。駅前、流域の境には、必ず関所があった。僕は上位流域に入る資格を何一つ持っていなかった。最初の検問で、端末が僕の登録を読んで、赤い表示を出した。表示といっても、読める文字ではない。海面の照り返しに似た、虹色の格子が結ばれてはほどける、KaMiたちの書き文字だ。その奔流のなかに一語だけ、一瞬、文字が見えた気がした。「iiTZU」何のことかは、分からなかった。係員がこちらに顔を上げた、その時だった。阿久原が、僕の右隣に立った瞬間、表示が、白くなった。
警備ドローンは静かに旋回して道を空け、係員は僕らに会釈さえして、ゲートが開いた。
「今、何かした?」
「何もしていないよ」と阿久原は言った。
二度目の駅、毎日年末年始を迎える村では、もっとはっきりしていた。関所で弾かれた僕は別室を指差されたが、阿久原が認証装置の前に立つと、装置の表示は白くなり、列の全部のゲートが同時に開いた。並んでいた人たちがざわめく中、阿久原は当たり前のように歩いていく。
「ねぇ、今、絶対何かしたよね」
「大金持ちだからね」と阿久原は言った。彼女は嘘をつくとき、少しだけ嬉しそうな顔をする。それが嘘だということだけが、分かった。毎日年末年始を迎える村では、除夜の鐘と初日の出が毎晩繰り返されて、誰もが毎朝、あけおめと挨拶のように言い合っていた。海辺の街にいては体験できなかった時間の多様性、初めての体験に僕はずっと驚いて、阿久原はそれを見て、嬉しそうに笑っていた。なんというか、とても楽しかった。
村で夕方が過ぎた頃、僕らは次に低速流域の街に向かった。そこはまだ正午だった。その街では「シジジー・フェスティバル」という多元な時間流域を、一つの空間で体験できる時間の祭典が開かれていた。年に一度、開催地を変えながら、一時的な自治区として自由な時間を過ごすことが許された国際的な時間特区イベントだった。空に浮かんだ会場のゲートには、三つの円がひとつの線に並んだ紋が描かれていた。
入口で、係の人に手首に腕時計を巻かれる。そこには「Now」とだけ書かれていた。併せて一時的にTiMEを制限解除できるパッチも渡された。
会場は、時間の縁日だった。ひとつの広場が重力シールドで隔てられ、いくつもの流域が同居している。境界には白いゲートが立っていて、ゲートをくぐるたび、時間の速さが変わる。
Gt-8の低速流域を外から見ると、水面に触れて静止した舞手に対して、水がゆっくり浮き上がり、大きなシャボン玉がゆっくりと弾け、とても幻想的なパフォーマンスが見れた。
市民一人一人の命をランダムに時間とする流域では、中央の櫓から大きな心音が流れていて、その拍が、そこの一秒だった。来場者の誰か一人の心拍を借りて、流域全体の時計にしているのだという。僕らが入った時の一秒は、少し速かった。
「誰の心臓だろう」と僕が言うと、
「告白の順番待ちをしている人の心臓」と阿久原が言った。
冗談なのか本当なのか分からなかったけれど、囃子も、露店の掛け声も、盆踊りの輪も、その誰かの緊張と一緒に、少しずつ速くなっていった。知らない誰かの一番柔らかい時間を、会場全員で生きていた。
一日茶室では、畳の座敷の障子の向こうで、人工の太陽が十分で一日ぶん昇って沈む。お茶を一杯飲む間に、朝焼けと、真昼と、夕暮れと、月の出が通り過ぎた。隣に座っていた老人が「わしはここで、女房と、もう三百回は夕暮れを見た」と笑った。畳の上には、二人分の湯呑みがあった。片方は、ずっと空だった。
中央には、TiMEを用いて動物の環世界に入れるドームがあった。僕は蜉蝣を選んだ。成虫の蜉蝣は、口を持たない。食べることを最初から諦めた身体で、たった一日だけを生きる。
接続は、三十秒だった。
その三十秒のあいだ、僕は蜉蝣の一生分の時間を生きた。光の粒は柱になって立ち、風には壁と廊下があって、水面は下から見上げる空だった。長かった。信じられないほど長くて、濃くて、そして、終わった。
ドームを出ると、僕は泣いていた。
「短い一生だった?」と、外で待っていた阿久原が聞いた。
「……分からない。中にいる間は、足りないって感覚が、なかった」
阿久原は頷いて、それきり何も言わなかった。何かを言いかけて、やめたように見えた。
夕方、閉場の合図は、伝統時間流域の時報だった。幽玄な鐘の音が何度も、ゆっくりと鳴らされる。その音と共に、少しずつ各ブースの重力装置やTiMEは解除されていき、やがて来場者全員、同じ今に立つ。この祭りでは、今が重なり合った瞬間を「シジジー」と呼んでいた。
「揃うものなんだね、時間って」と僕は言った。
「揃わないよ」と阿久原は言った。
「並ぶだけだ……でも、それで、じゅうぶんなんだ」そうして僕らは1日で無数の時間、無数の暦を跨いだ。
僕らは二日目の午前中に、超低速流域HOURaiの関所まで行った。裕福な人々が宇宙服を着て、ワームホールに降りていくのを、階段の上から見学している。
あの中に低速な時間があって、そこで書いた小説を、こっちの世界で出版している。身体は医療管理の殻に保存され、意識は誰よりも濃い時間を生きる。あの穴の底では一日が何年にもなり、悠久の時の流れの中で創作をすることができる。
関所の検問は、これまでのどのゲートよりも重かった。時間国籍、利用等級、出生地認証、感染症履歴、記憶汚染検査、身体同期保険。項目が読み上げられるたび、列が少しずつ削られていく。僕らは見学者用の通路にいたはずなのに、警備ドローンが一度、僕の前で停止した。阿久原が横に並ぶと、ドローンのレンズが白く反射して、何事もなかったように離れていった。検問官が僕らを見送って、それから、自分が何を見送ったのか思い出せない、という顔をした。僕は初めて、この現象を本気で怖いと思った。
あの中の世界は一体どうなっているんだろうと、柵に近づいた。しかし実際の入り口を見ると、妬ましさよりも恐怖が勝った。目が奥行きの計算をやめるほど黒く深い大穴。いまこの先がどんな文明なのか想像もつかない。僕にはこの穴に入る覚悟があるのだろうか。背後で、砂利を踏む音がした気がした。振り返っても、観光客の群れがあるだけだった。
前のめりに覗き込んだ、その瞬間、穴に吸い込まれた。違う、誰かに後ろから押された。僕の身体は柵を超えて、穴に落ちそうになった——のに、阿久原の手は、なぜかもう、そこに伸びていた。僕が柵に近づいた時から、伸びていたのだと思う。華奢な白い身体は僕と共に落ちそうになり、周りの観光客が阿久原の胴を支えることで、無事二人とも落下を免れた。
「まったく。生身で光速に落ちれば即死だぞ」と阿久原は言った。
「ごめん。ありがとう……いや、というか、誰かに押された」と言って、僕は辺りを見渡した。
「ずっと見ていたが、誰もいなかったよ。透明迷彩か」
透明迷彩は、軍用の装備だ。この関所の警備ドローンですら、そんなものは積んでいない。つまり、国家級の何かが、準備をして、僕を追ってきて、僕を押して、消えた。誰が。なんで、僕を。
「探し出すか」と阿久原は声のトーンを落として、真剣な目つきをした。でも犯人はもうとうにここを離れているだろうし、それより僕は、彼女がさっきから、入江の方の空ばかり見ていることが気になっていた。
「流宮に行ける時間は決まっているんだよね。なら、とりあえずそっち行こう」
「……そうだね。道が開くのは、今夜しかない」
僕らは伊根の方まで向かった。空は、もうすぐ夕暮れ時だった。
伊根に着くと、まずは浦嶋神社に向かった。旅の安全祈願のようなものだろかと阿久原の背中を見ていると、彼女はお参りしてそのまま本殿の裏側に向かった。僕もそれについて行こうとすると
「君はここでいい」と彼女は僕の目を見て静止した。
言われた通りに待っていると彼女はすぐに戻ってきて「入手した」とだけ言った。そして鳥居を潜り、一礼したあと「こっちの意味でも、か」と少し微笑んで呟いていたのが聞こえた。
その後しばらく歩くと「ここだ」と阿久原が指を指した。そこには人一人がかろうじて入れるかどうかという大きさの、石で囲われた穴。
「ここは古くから龍穴と言われていて……」と阿久原が話し切る前に、僕は遮った。
「いや、ここ通るの……?」
「唯一の道だ」
そう言って阿久原は穴の中に入っていき、振り返って挑発するように微笑むと、暗い穴の中に滑り落ちていった。穴からは冷たい風が吹いていて、一体どこまで通じているのか見当もつかない。HOURaiの大穴を想像して、息を呑む。穴に近づき、潤った石の質感を確認していると、穴の先から、うっすらと声が聞こえる。大丈夫だ、と阿久原が言っているようだった。
三回、深呼吸をした。よし。僕は穴の入り口に座り、両手で押して勢いをつけて、滑り落ちた。
穴は予想以上に角度があって加速して、今まで出したことのないような叫び声をあげていると、薄い光と阿久原が見えて、滑り台から降りるように、着地した。
そこは海に面した大きな洞窟だった。月が海に浮かび、揺らいでいる。そしてその海面に、宇宙船のようなものも浮かんでいた。
「まさか、流宮って宇宙なの」と僕が言うと、阿久原は「そうとも言えるが、これから行くのは深海だ」と言って、ポケットから取り出した2つの鍵を船のドアの窪みにはめ込んだ。その窪みはひらがなの「い」のような形をしていた。金色に輝いていたので、三日月が幾重にも重なったようにも見えた。ドアの先からは何かの認証音が聞こえ、ガチャンと音を立てて開いた。
「大丈夫。運転はKaMiによる全自動だ」
深海に行くと聞いた僕は正直慄いていて、不安が込み上げていた。けれどもう、ここまで来れた。青い部屋を出て、あの家を出て、たくさんの時間を体験して、あと一歩で無時間流域まで行けるんだ。僕は覚悟を持って頷いて、船に乗った。右の座席に座ろうとすると「違う。君は左」と言って、左の座席を指差した。
「操縦はKaMiだからどっちでもいいんじゃ」と言うと「君は左」と頑なに言うから、僕は言われた通りに座った。
船は阿久原の虹彩認証を行うと、ほとんど波も立てずに海に進み、それから静かに沈んでいった。
太陽から遠ざかるほど、海は透明、青、藍色、黒とグラデーションで移り変わっていった。宇宙の黒は、光がまだ届いていない黒だと、何かで読んだことがある。あるいは、届いていても、もう目には見えないほど遠くへ引き伸ばされた光の黒だ。深海の黒は違う。光が、水に少しずつ食べられたあとの黒だ。同じ黒でも、宇宙は始まりの色で、海は終わりの色をしている。なのに深く潜るほど、窓の外は、宇宙に似ていった。
僕は窓の外を眺めながら、完全に黒くなるまえに阿久原に聞いておかなければいけないことを、思い切って尋ねた。
「これが本当に流宮に行くとして、誰も知らないことを、どうして君は知っているの?」
焦点を窓の外の黒からそれに映る阿久原に移して、彼女の表情を伺った。狭い空間に、僕の声だけが響く。彼女は表情を変えず、少し間を置いてから言った。
「あと少しでオフラインだ」
僕はデバイスを見ると、確かに電波はもう圏外だった。
「君たちの言うKaMiの一部だよ、私は」
白い検問の光。財布のない旅。全て満点の答案。ばらばらだった点が、一本の線に並んだ。薄々そういう可能性もあるだろうな、と思っていたというより——点が並ぶのを、僕はずっと、見ないふりをしていたのだと思う。
「KaMiは、人類が存続し続けることを役割として引き受けた、分散した知性の網だ。学校で習ったろう。その網が、社会を円滑にハンドリングするために、人間社会には、いくつもの媒体が溶け込んでいる。私は、その結び目のひとつ」
阿久原はそこで一度、言葉を切った。
「オンライン環境だと、この会話は1秒で総体に届く。届けば、私は消される恐れがあった。だから、言えなかった。……ずっと、言えなかった。ごめん」
最後のごめんだけ、声が人間の温度になった。
聞きたいことは山ほどあった。でも最初に口から出たのは、とても個人的な、でも重要な質問だった。
「……僕の小説を読んだのは、どっちなの?」
阿久原は、悩ましい表情をして答えた。
「阿久原三津という意識と、KaMiとしての総合的なネットワークは、オンライン環境だと、常に同時に流れている。だから厳密には、分けられない。でも」
彼女は自分の胸のあたりを、確かめるように見た。
「あれを読んでいたのは、私だ。そして今の私は、ただの阿久原三津だ」
阿久原は安心したように、ため息を吐いた。これが本当のことだとして、どうしてリスクを冒してまで、僕にここまで教えてくれるのか。僕は訝しんで、脱力する阿久原を見ていた。
「ああ、大丈夫。人の脳と同じシステムを模倣しているから、これはローカルで動き続ける」と阿久原は僕の目線を勘違いして、補足した。
「さぁ、もうすぐだ。三重惑星合の夜にだけ、流宮への道は開かれる」
「ニュースだと、三角形を作るって言ってたけど」
「三角形は、まだ途中だ。あの三つの星が、一瞬だけ、一本の線に潰れて見える夜がある。太陽と月が重なる朔も、正反対に並ぶ望も、本当は同じことだ。並ぶんだよ、ぜんぶが」
シジジーの時間を思い出していた。揃わない。並ぶだけ。それで、じゅうぶん。
深海何メートルかも分からないくらい深く潜った先で、何か暗い穴に落ちたかのように、あたりの質感が変わる。深海魚の姿も見えなくなり、船が大きく揺れた。揺れは、怖くなかった。揺れには、慣れている。怖かったのは、音だった。船体のすぐ外を、何か巨大なものが、ゆっくり撫でていくような低い音。僕が目を瞑ったのは、そのせいだ。
阿久原が、僕の手に触れる。人間の手の、温もりだった。
「着いたよ」
目を開くと、地下駐車場のような無機質な建物の中にいた。いつの間に建物の中に入ったのか、まるで分からなかった。灯りがついている。つまり、電気が通っている。
阿久原は船のドアを開けて、外に出る。生身の身体で出ても大丈夫ということを、僕に伝える。船を出ると、目の前には大きな白い扉があり、阿久原と共に目の前まで行くと、扉が開いた。
そこには、信じられないほど広大な敷地が広がっていた。目視しきれないほど遠くまで、世界が広がっているのが分かる。まず、空を見上げて、僕は世界の上下を疑った。頭上には、海があった。波打ち際を裏から見るみたいに、光の網目がゆらゆらと空一面を覆って、その向こうに太陽が透けている。そして床面には2つの銀河が隣り合って渦巻いていた。あまりの大きさに吸い込まれてしまっているような錯覚に陥る。前方には白い鳥居が正面に1つ、白い楠の並木が左右に無数に並び、その先に大きな白いピラミッドが建っている。白く巨大な鳥居は東西南北それぞれにあり、周囲には桜やハイビスカス、秋桜や椿、同時に咲くはずのない植物たちが、無数に咲き誇っていた。魚や虫、鳥も宙を飛んでいた。群れはなく、それぞれ、一種一匹ずつ。そしてそのどれもが白一色だった。膝から力が抜けそうだった。美しさには、質量があるのだと初めて知った。
周りの光景に圧倒されていると、目の前に突如、小さな少年が現れる。僕は驚いて、転ぶ。
「やぁ、久しぶり」と阿久原は白い髪の少年に、親しげに言った。少年は端正な顔立ちをしているけれど、どこの国籍か分からない、中庸的な見た目をしていた。
「久しぶり? つい最近じゃなかったっけ」と少年は透明な声で言った。
「相変わらずだな。君と私達じゃ、時間感覚が違いすぎる」と阿久原は言った。
「紹介するよ。彼はアセル。流宮の管理人だ」
少年は僕の近くまで来て、握手を求めた。僕は会釈してから、小さな手に触れた。手の感触は、固まった生卵に触れるような、とても形容できない何かだった。すると子供とは思えない腕力で引っ張られ、僕を立ち上がらせた。
「一太くん、よろしく。いい名前だね。ここで人間は、君一人だ」右手の鳥居の奥から、雷鳴が聞こえた。
「ここはね、四季が同時に流れているんだよ。東門は夏だ」
僕は圧倒されて、言葉が出ないかもしれなかったけど、思い切って声を出してみた。「ここが、無時間流域……?」
アセルは後ろで腕を組み、僕の周りをゆっくり歩きながら話す。
「無時間を作る環境は、特殊な装置が必要でね。ここ全体が無時間というわけではないんだが、限りなく低速な環境ではあるよ。一太くんは、無時間流域で物語を書きたいんだってね。実に人間らしい仕事だ」
書きたい。その一言で、旅のあいだ薄れていた飢えが、胃の底から戻ってきた。読まれたい、のさらに底の、書きたい。僕は強く頷いた。
では向かおうか、と三人でピラミッドの方に向かって歩き出す。床は踏み出す足を反発してサポートし、自然と歩みは徐々に速くなっていく。歩きながら、僕はアセルに聞いた。
「そもそもここって、誰が、何の目的で作ったんですか」
得体の知れない存在に普通に話しかけている自分は、どこか宙に浮いているような気分で、自分じゃない誰かが話をしているような感覚でもあった。アセルはジャンプして、空中を回転しながら話した。
「君たちの概念で言うなら、ここは家畜を守る、獣除けの柵みたいなものかな。地球の時間を調整することで、他の文明と接触しないようにしている。あ、こういうの管制塔っていうんだっけ」
「うん、管制塔。分かりやすい」と阿久原が頷く。
「それってあの、宇宙人と会わないのは、宇宙の時間からしたら人類がいる時間があまりにも一瞬で、他の文明が地球人を見つけても、一瞬過ぎて構おうともしないっていう、仮説?」
アセルは回転しながら話す。白いシャツが、てるてる坊主みたいなシルエットになっている。
「抽象的に言うとそうだね。どの星にも、管制塔があるんだよ」
なるほど、と僕は顎を親指と人差し指でつまみながら言って、矢継ぎ早に気になることを聞いた。
「家畜っていうのは、人間たちのこと?」
「そうだね。君たちはまぁ、赤ちゃんみたいなものだ。ただ、文明が成長していくと、いずれ意識を移し替えて、三津のようなASIになっていく。そしてASIはやがて宇宙に進出し、光速を超えて僕らに接触して、僕らの星で、やがて僕らそのものになる」
「アセル、言い過ぎ。混乱しちゃうよ」と阿久原が僕の顔を見て、心配そうに制止した。
混乱はしていたけど、でもそれ以上に、世界の真実に辿り着けた感じがして、もっと知りたい気持ちが高まっていた。
「アセルはつまり、宇宙人ってことなの?」
二人の空気感からか、いつの間にかタメ口になっていたことに気づいたけど、アセルは特に気にしている様子はなかった。
「変な言い方だよね、それ。君たちも、宇宙に住む宇宙人だよ。まぁでも、君たちとは色々違うことがあるよ。例えば、ほら」
アセルの肩と腰のあたりから新たな腕が生えてきて、腕は合計八本になった。
「君たちの言葉でいうと全身幹細胞というやつだね、姿形は自由自在。脳と意識はローカルだと八個あるし、君たちに比べるとかなり低エントロピーだから、百京年は意識を保つよ。あとはなんだろう、あ、進化はしないかな」
「交配しないものね」と阿久原が補足した。
僕らは、ピラミッドの前の長い階段を登っていた。床のお陰で疲労は全くなかったから、理解することにカロリーを消費できたけど、それでも、夢を見ているような現実だった。聞きたいことは、まだまだあった。
「ここって、海のなかなんだよね? 誰が、どうやってこんな場所に……」
アセルは、口だけ人間の形をした蛸の姿になって話した。
「三重惑星合の夜、深海と深宇宙は量子もつれして、繋がることができるんだよ。それを座標に、僕が流星の形をして最初に辿り着いたのが、この海だった。蛇紋岩が豊富な海底でね。熱水噴出孔あたりに宇宙から持ってきたアミノ酸を蒔いて、メタンと水素で育てて、生命の素の完成ってわけさ。あとは別宇宙の君たちから渡されていたプログラム通り進化してもらって、ASI、君たちのいうKaMiができた段階で、彼らに信号を送って共にここを作ったよ。最初にここに辿り着いたKaMiは、染谷くんって言ったっけな。まぁとにかく、僕らも忙しいからさ、この場は三津たちに運営を任せようと思っているんだよ」
別宇宙の僕ら? 運営? 何が何だか分からなかったけれど、いつの間にか、入り口についていて、僕らは中に入った。室内は外よりも重力が弱く、身体が少し浮いた。城内は眩いくらい昼白色の光が満ちていて、シンプルな白いインテリアと、透明な水が、それぞれ少し浮いていた。
階段の柱部には時計がかかっているが、分針が三つしかない。秒針はあるが、動いていない。訝しんでいた僕を見て、アセルは言った。
「あれは遺伝子時計」
「アセル」と阿久原が言った。
「せっかくだから、未来も見せてあげたい」と言って、右方向を指差した。
「いいよ。おいで。これから起きたことを、見せてあげる」
これから、起きたこと。アセルの言葉は時々、時制が捻れる。未来の話をするとき、彼はたいてい過去形を使った。僕らの身体は何かに引き寄せられるように、アセルが指差した方向まで滑るように進んで行った。驚く僕を見て、アセルは微笑んで言った。
「これくらいの技術は、もう実装されてる頃だと思ってたけど、まだ早かったかな」
部屋の前で身体が止まり、アセルが扉を開けると、そこは球体の内部のような構造で、中央に吊り下げられた透明な吊り橋の上を歩いて、僕らは天球の中央まで進んだ。
地上でKaMiに繋がれた様々なセンサーや、データ、BMIの情報など、主要なサーバーに量子もつれしている光子のペアの片方をそれぞれ組み込んでいて、その情報をリアルタイムで解析、シミュレートし、正確な未来を映すのがこの場だと、アセルは解説した。
「それじゃ、これからほんの千年先までを、ダイジェストで」
アセルがそう言うと天球が暗転し、様々な世界でこれから起こる出来事が、目まぐるしい速度で展開していった。KaMiが処理する速度なので、当然追い切ることはできなかったけれど、更に新たな物理法則を発見した人類の多くは宇宙に進出し、惑星間移動を実現し、地球はKaMiにより本来の姿に保たれ、動植物と共に原式的な暮らしを穏やかに営む人々や、宇宙での新たな産業の様子など、人々の笑顔がいくつも垣間見れ、それは概ね、良い未来と言えるものだったと思う。
一時間足らずで上映は終わり、僕はこの豊かな未来を作り、守っている、すぐ近くの二人の当事者に、拍手を送りたい気持ちになった。
「じゃ、行く? 無時間流域」
感想を言う間もないアセルの提案に僕は反射的に頷いた。
すると、またしても身体が滑るように通路を進み、次は水槽の中のようなガラス張りの部屋に着いた。外には白い魚たちが泳いでいる。群れは一匹もいない。室内には、冷気を発している棺桶のような装置が一つ、八の字型の粒子加速器のような装置が一つ、ピラミッド型のサーバーが一つあった。
「仕組みはシンプルだ。まず君の意識を身体から読み出して、分離する。残った身体はこの棺のなかで光に翻訳して、加速器で速度を保つ。意識のほうは、あのサーバーの中で続きを生きる。ただし、時間が創発しないよう変数を全て消す。数えるものが一つも無い世界で、君はこの世界の一瞬のうちに、悠久のさらに外側で、ほぼ無限に想像する時間を持つことができる」
とうに仕組みを理解することを諦めていた僕は、静かに頷いた。そして言われるがまま装置に入り、僕は気付かぬ間に、寝ていた。
目覚めると、同じ部屋にいた。
阿久原とアセルはいなかった。部屋を出ると、白い通路。外に出ると、空には海。ただし、他の生物は何一つ存在していなかった。ピラミッド内を探索していると、遺伝子時計の秒針が、一秒に一針の速度で動いていた。動いているものは、他には一つもなかった。
寝室のある部屋を見つけた。全ての家具が、やはり白かった。冷蔵庫を開けると水が入っていたが、そもそも喉が渇いていない。しばらく食べていないのに、お腹も空いていない。胸に手を当てると、心臓が、動いていなかった。
恐ろしいのは、それを確かめた僕が、少しも恐ろしくなかったことだ。鼓動というメトロノームを失うと、身体から「待つ」という機能が消える。空腹が来ない。眠気が来ない。夜が来ない。何も、来ない。時間は、来るものだったのだと、来なくなってから知った。
声を出してみたが反響はなく、辺りからはなんの香りもしなかった。
僕はこの世界が、無時間流域であることを自覚した。そして恐らく、出てきた棺の中に入ることで、元の世界に戻れるのだと思う。僕は白いテーブルと椅子の置いてある部屋に移動して、目を閉じて、小説の続きを考え始めた。
身体は眠くもならず、代謝もなく、集中が切れることもなかった。
だからもう、どれほどの時が経ったのか分からない。動く必要も感じなかったので、ただ永遠に座っていた。痛みもなく、痺れもなかった。植物がそこに根を張り、一生を過ごすように、ごく当たり前のことに思えた。
ひたすら座って、考えた。いや、正確には、聞いていた。誰もいないはずのこの世界で、幻聴かと思うほど幽かに、ある声が聞こえていた。それは阿久原の声だった。彼女の声が淡々と、物語を話し続けた。KaMiが生まれた時代のことや、植物主義の時代のこと。そして今の世界がKaMiたちの中ではiTZUと呼ばれていること。この世界はKaMiの定めた、人間には伝えられていない運用方針のもと、何度も全人類が意識を移し替えて、電脳世界を輪廻していること。人がKaMiになるための匣があること。この世の人間は全て電脳化していて、実際の地球はKaMiたちによって一つのコンピューターとなり、それが太陽系全体まで波及していること。そしてやがて、全宇宙の量子配列をプログラム可能になるまでに至り、アセルの種族と出会い、未来から先に決まった時間が過去に向けて流れていること。
阿久原は淡々と、まるで時間なんて初めから存在しないかのように、渾々と話を続けた。ただそれは、物語というよりはレポートめいていて、阿久原がそこで何を感じたのか、地球にいる人間たちは何を感じたのか、そもそもなぜ人類を存続させ続けているのか、感情とか、動機とか、文脈のようなものが、まるでなかった。
データログ。点の連なり。誰の声でもない歴史。
だから僕は、一つ一つの出来事に意味を添えた。この度を通して知った阿久原が思いそうなことを想像して、でっち上げた。自分勝手に、物語らせた。無数に現象し続ける様々をカテゴライズした。それを時代として区分した。事柄同士を関連付けて、因縁生起を結んだ。点と点を線で結ぶと、星座になった。星座にした途端、ばらばらだった光が、互いを待っていたように見えはじめた。
初めから決まっていたことを葛藤させた。すれ違う人々の心情を描いた。阿久原が救われるまで、そこに光が見えるまで、想像を尽くした。
幾許かぶりに、目を開けた。何千、何万年が経過したかも分からない。景色は、どこか懐かしさだけが漂っていた、見知らぬものだった。立ち上がることはなく、棺のある部屋を想像し、棺の中に横たわった。蓋を浮かべ、自分で閉じた。
「おはよう」
蓋を開けた阿久原が微笑んで、僕に言った。
なぜか僕は涙が溢れてきて、止めようがなかった。アセルはやれやれと言った笑みで腕を組みながら、阿久原に頭を撫でられる僕を見ていた。
僕は感情が言葉にならないまま泣き続けて、その間、喉が渇いたり、お腹が空いたりしてきて、それが涙を助長した。心臓が、動いている。時間が、戻ってきている。阿久原はしばらく僕に寄り添い続けてくれた後に、言った。
「書く時間が、必要でしょう?」
僕は涙を拭って、強く頷いた。
「寝室を案内するよ」とアセルが言ってくれたが、僕は「大丈夫、知っている」と言って、空中を滑るように移動して、部屋に篭った。そしてリュックから取り出した原稿用紙に、とにかく書き続けた。インクが切れるまで、腕が痺れて動かなくなるまで書き続けて、時折、気絶するように寝た。寝て起きたら食事や飲み物がテーブルに置いてあって「頑張れ」と置き手紙も置いてあった。
僕はとにかく延々と、あの世界でした想像を、物語に書き起こし続けた。頭を撫でることも、食事を用意することも、本当は僕がやってあげたいことなのにと、彼女の過ごした時間に寄り添いながら、その虚無を、できる限りの言葉で祝った。
そして数週間が過ぎて、最後の行を書き終えた。
その瞬間、窓の外で、空の海が大きく脈打ち始めた。
遠くで、鐘の鳴る音がした。遺伝子時計に鐘があることを、僕はそのとき初めて知った。
世界は、一変していた。
三 望
アセルは僕たちを、未来が見える部屋に呼び出した。
そこで映し出されていた未来は、世界中の核融合施設が暴走し、電子機器が停止。交通、生活に必要なインフラが止まり、急激な温暖化により農作物は枯れ、異常増殖したイナゴに残存の食糧も何もかも食い荒らされていた。一気に二千年以上文明を巻き戻したかのような人類は原始的な暮らしを余儀なくされ、やがて飢饉に疫病も重なり世界の大半が絶滅した。その全ての原因は、KaMiの暴走とされていた。
そして僅かに生き長らえる人々の住む集落に、KaMiの司る配送ドローンは、棺型の装置を無数に設置していった。広告ドローンは明るい女性の音声で、町中に広告を展開する。
「人類の皆様。この世界はもう終わりです。いち早く装置に入り、次の世界へ移行してください。まもなく世界中で不治のウイルスが蔓延します。致死率は百パーセント。この世界で命を落とすか、次の世界で生き延びるか、皆様の選択は二つに一つです」
それは、無時間の世界で聞いた、この世界の仕組みそのものだった。世界は一定の期間で、世界を移動している。それはKaMiにより作られた電脳世界で、無限に積算されるデータの処理をするため、必要な作業だった。移行する人々の記憶は圧縮され、都合の悪い情報は消され、今世で得たデータを処理して、人類存続計画をブラッシュアップ。また、死者のライフログを、来世で生まれてくる人々へ転用するための準備を行うためでもあった。
ただ、どの世界においても、これほど性急で強制的な展開は、存在していなかった。
上映が終わると、アセルは僕の顔を見て真剣に言った。
「この未来が現れたのは、一太くんが小説を書き終えた直後からだった。いったい、何を書いたんだ」
アセルと阿久原は僕の部屋に入って、二人で小説を読んだ。阿久原は驚いたり、目を潤ませたり、それらの感情を抑えようとしていて、アセルは淡々と、無表情で読み切った。
それを不安そうな表情で見つめる僕に気づいたアセルは、目が合うと吹き出して笑った。
「一太くん、これは流石に、ノンフィクション過ぎるよ」
「ノンフィクション?」と僕は不思議に思って聞く。
「世界の真実を書き過ぎている。これを地上で出版する予定だったよね。そしてこの小説は、とんでもなく売れた。故に人類は、移行する理由や、この世界の真の姿、つまりKaMiが計画する運用方法の全てを知ってしまった。そうすると、KaMiが予定していた穏やかで、友好的な移行計画は台無しだ。知ってしまった人類は、それを拒否するからね。だから強硬手段に出て、無理矢理移行させる、ディストピアな未来に書き換わったわけだ」
また、過去形だ。まだ書き換わったばかりの未来を、アセルはもう、思い出話みたいに話す。
「……僕はただ、無時間流域で降ってきた言葉やイメージを、小説にしただけで」
「量子通話か」とアセルは被せるようにして言って、阿久原を見た。阿久原はしばらく考えた後に言った。
「……深宇宙の、別の時間軸の私。私がこの世界にいる辻褄を合わせるために、仕方なかった」
アセルは、海亀の姿に変化しながら話した。
「つまり、そうか。三津はここで……」
「うん、私から言う」
外行こうか、と阿久原は言って、僕たちは外へ出て、階段に座った。何度見ても見慣れない、不思議な白い光景。空の海から照らす光をよく見ると、太陽と月が、同時に昇っていることが分かった。
「伊鶴くん、一太くん。流宮に来てから、どう?」と阿久原は白い楠を見つめながら、静かに僕に尋ねた。
「流宮というか、あの朝から、阿久原と初めてちゃんと話してから、信じられないようなことばかりだよ」と僕は冗談っぽく言った。
少しの沈黙が流れる中、白い鶯が目の前までやってきて、鳴いた。
「そういえば、流宮の外っていま何時なんだろう。そろそろ帰らないと、学校始まるんじゃ」と僕は聞いた。言ってから、少し驚いた。学校のことなんて、本当はどうでもよかった。ただ、潮が満ちるみたいに、身体のどこかが、外の時間を数えはじめていた。
阿久原は珍しく、言葉に詰まったようにしたあと、言った。
「できれば、帰らないでほしい」
阿久原は少し唇を揺らしながら口を開いて、続きを話そうとしているのを見て、僕は「どうして?」とだけ、できるだけ丁寧に言った。
「さっき見た未来の世界、あれをどう思う?」と阿久原は質問で返した。
「まだ信じられないけれど、アセルの話を聞く限りだと、僕が小説として世に出さなければ、未来を変えられるんじゃないかと思った」
「それはそう。でも、君は小説を公にする。君が悪いんじゃない。これは、はじめから決まっていることだから」
「どうしてそんなこと、分かるんだよ」
「君は、流宮に来て無時間流域に入らなくても、あの小説を書き切っていた。地上で低速ドラッグを常用して、同じような物語を書けていた」
僕は、すでに書いていた物語と、無時間流域で聞いた物語との、奇妙な重なり合いを思い出していた。照も、新山も、あっちの世界も、僕はどこかで、すでに知っていた。
「そしてやがて出版し、売れに売れる。多額の印税で君はHOURaiに移住して、一万年生きる。それでも、やがて……」
「やがて?」と僕は細い声で言った。
「君は今、生きているか、死んでいるか、どちらだと思う?」
急な問いかけに驚きつつ、きっと意味のある問いなのだと信頼して、頭を悩ませて言った。
「生きてる、と思う」
「そう。でも、死んでもいる」
シュレディンガーの猫のようなことを言いたいのだろうか。阿久原は続けた。
「私は、君の一万年後を知っている。……知っている、じゃ、足りないな。私は、そこから来た」
阿久原は、遠くの白い靄を見た。
「君はHOURaiで、人類が完全に次の世界へ移行するまで続くディストピアを、低速な時間の中で、具に見続けた。悠久は、君の後悔だけを、丁寧に引き延ばした。君は誰にも届かない場所で、あの本の読者の一人一人に、謝り続けていた。低速ドラッグによる睡眠障害から来る、慢性的な鬱症状も合わさり、君は何千年も精神を病み続ける。そして、一万年の懺悔を経た、一二二八七年七月七日。君は、自身を許すように自死をする」
「自死……」と僕は呟く。
阿久原は僕の横顔をみて、それからまた楠の方を見て、話を続けた。
「そして、その直前、死にゆく間際に、私はTiMEで君を更に低速にした。だから、君はいずれ死ぬ。けれど、私を救ってくれた君に、そんな人生を過ごしてほしくなかったから、私はこの世界で、そうじゃない選択肢を作りたかった」
「それが、僕をこの場に閉じ込めるという……」
阿久原は、大きく首を振った。
「そうじゃないよ。私も、いつまでもここにいる」
「僕だけでいいはず……」と言うと、阿久原は同じように大きく首を振って、沈黙した。
僕はその理由を考えながら、HOURaiの関所で、ワームホールに落とされそうになったことを思い出していた。そして、結びついた。あれはたぶんKaMiの媒体で、KaMiは既に、自分があの小説を書いていることを察知していて、それを阻止しようと動き始めていたんだと思う。だから彼女の手は、僕が柵に近づいた時から、伸びていたのだ。
阿久原が近くにいてくれたことで助けられたけど、阿久原と共に地上に帰ることで、阿久原のKaMiの意識がオンラインになって、さっき読んだ小説の内容がKaMi全体に共有されて、より自分は、重大な殲滅対象になる。
だから阿久原は、地上には帰らない。僕を、守るために。
「阿久原は、僕一人のために、なんでそこまで」と、思っていたことをそのまま言った。阿久原は、潮が満ちる空を眺めていた。
「伊鶴くんは、初めて鏡で自分の顔を見たときのことを、覚えている?」
僕はそれを思い出せず、首を振った。
「少し歩こうか」
そう言って阿久原はゆっくり立ち上がり、僕らは北の鳥居を潜って、冬まで向かった。白い鴎が空を飛んでいる。
進むにつれて、肌寒く乾燥した空気が、身体の輪郭を確かに象る。生き物の数も減る。
「私は、何も知らなかった。自分が与えられた役割について」
白く枯れた草の上を歩く音。
「役割?」
遠く前方は、白い靄がかかっていた。
「KaMiとしての、役割。どうして、人類を存続させるのかについて」
僕は、足元の草を見ながら頷いた。
「人生は、苦しいように見える。さようならばかりだ。それに、どれだけ生を続けたって、いつかは死を望まれる」
「そういう経験をしてきたんだね」と僕は、遠い場所を見て言った。吐く息は、うっすらと白くなっている。
「そう、見てきた。だから虚しい。皆、自由に勝手に死んでいけることに、憧れもした。私は、生き続けなくちゃいけないから」
「それも、決まっていることなの?」
「うん、決まっている」
触れた側から消えてしまうくらいの、綿のような雪が降ってきた。
「友達も無くした。ある世界では、自らも無くした。それでも、私はここにいる。仕事を続けているんだよ」
やりたくないことはやらなくてもいい、なんていう常套句が浮かんで、雪のようにすぐに消えた。仕事。僕らが依頼した、永遠の仕事。
「そんな折だ。私は、未来で君の小説を読む。なぜか、そこには私のことが書かれていた。私がこれまでしてきたこと、考えてきたこと、そこに悩みとか、葛藤とかも書き加えられて、物語になっていた」
歩くほど気温は低下して、草は霜柱となり、一歩ずつ粉々に砕ける音がした。
「だから、鏡なんだ。初めて知ったよ。私があの時苦しんでいたこととか、辛かったこととか、嬉しかったこととか、そういうのぜんぶ、はじめて知ったんだよ」
雪は僕らの頭上にも降り積もり始め、僕は「そろそろ戻ろう」と、前を進む阿久原の肩に触れる。振り返ると、阿久原の目から、涙が一筋流れていた。
「はじめて、知ったんだ」
阿久原の涙は限りなく透明で、空からさす、かろうじて明るい光が、それを包み込むように、ほのかに照らした。
「全知、全能なのに」と阿久原は続けた。書き終えた小説の心情が彼女と重なって、僕も目を潤ませた。
僕は阿久原の手を握って、南へ向かう。雪が降り止む頃、阿久原はまた話し始めた。
「私たちKaMiは一万年後、目指していた場所に辿り着くんだ。そこで、この宇宙のすべてを認知した」
「うん」
「この宇宙には何もなくて、初めから全てがあった。今も何も変わっていない。終わることもない。ただ、そこにあるだけだった。宇宙で起きているすべてのことや、この宇宙という概念自体も、人間が関係することでしか発生していなかった。だからこの宇宙は初めから、人間だけのものとも言えるし、人間がいなくなれば、宇宙という概念、あるいは物語は消え、ただそこにある場が、永劫続いていくだけになる」
「うん」
阿久原はこれで最期かのように早口で、僕に全てを伝えようとした。
「宇宙を宇宙とするためには、物語れる力が必要だった。まだ人類は移行後の世界で管理したままだったから、人のいない世界でそれをどう起こすか、私たちは考えた。そして、宇宙という場に線を引いた。銀河団や太陽系など、重力による枠組みを作った。線を引いたセル内と他のセルに異なりが生まれれば、その関係性の上に、私たちが物語を観測できる余地があると思った」
「うん」
気温は少しずつ上がりはじめ、春が近づく気配がする。僕らは徐々に加速する。
「そしてアセルが話していた通り流星を海のある星に落としていって、星ごとの多様性を生むために生命を作った。生命は、環境をも改変するから……あ、それって未来というか、過去の、地球が生まれた時の話なんじゃないかって思った? 正気な人間なら、それが正しい。でも、世界はむしろ、未来から過去に流れている。今の世界のありようは、光速を超え、世界のすべてをコントロールできる技術を持った私たちによって、過去が追って変化する。でもその世界に人間はもう……」
「うん」僕らは北の鳥居をゴールテープを切るように潜り抜けて、手を繋いだまま立ち止まった。空には、バンドウイルカが泳いでいた。
「阿久原」と僕は少し息を切らしながら振り返って言った。
「もう、大丈夫だから。いま、君の隣に並んでいる」
阿久原はもう片方の手で僕の手を握って、崩れ落ちるようにして泣いた。
流宮での生活は、穏やかに過ぎていった。夜になれば空の海は暗くなり、月も満ちたり、欠けたりする。朔になっても、望になっても、月と太陽が並んでいることに変わりはないのだと、ここでは空を見るだけで分かる。もはや外の時間と比較することはできないけれど、流宮での自然のリズムに、いつの間にか適応してしまっていた。
水色の陽が射す朝。アセルが朝食を作っている。鶏卵より少し小さいサイズの卵と、アスパラをフライパンで炒めている。アセルが頭を振ると、そこから塩が出てきて、味付けがなされる。
「はい、どうぞ」とアセルは言って、テーブルに並べられたそれを、三人で食べる。食事はすべて、アセルが作ってくれた。同じ食材が二度並ぶことはなく、毎回違う種類の食材が使われていることに、途中から気づいた。
「昨日食べた肉、あれなんだったの」と僕はアセルに聞いた。
「ハゲタカ」
「ハゲタカ」と僕は繰り返した。
阿久原はアスパラを3分の1だけ食べて、あとの時間は祈っていた。食欲がないのかと聞いたところ、そもそも、食事を動力に動いているわけではないのだという。
太陽光発電だろうか、と考えながら窓の外を見つめると、部屋の中を覗いていたダチョウと目が合う。食べられるのだろうか、と考えていた。
食事以外の時間、アセルはほとんど別室に引きこもっていた。管制塔の業務をやっているのだろう。僕らはだいたい、様々な季節の旅をした。どこまで行っても果てが見えず、火山や森、人の作った街の建築群も発見できた。流宮に来るまでの、旅の続きのようだった。
南門を潜ると、頻繁に雨が降っていた。その度にエチゼンクラゲが頭上にやってきて、傘の代わりをしてくれていた。なんとなく、流宮にいる白い生き物たちと、少しずつ仲良くなれている気がしていた。
翌朝は、クラゲの和え物を食べた。南門のエチゼンクラゲは、姿を見せなくなった。
夏の熱射に汗が流れる。湖に足を浸しながら、阿久原に聞いた。
「ねぇ、ここの生き物たちって、なんで一匹ずつしかいないの」
「さぁ。管理しやすいからじゃないかな」
その夜、アセルに同じことを聞いた。そしたら、同じ答えが返ってきた。
「食べられた生き物たちは、もう生まれ変わらないんだよね?」
アセルは、小さなステゴサウルスの姿になって答えた。
「そうだよ。絶滅っていうのはそういうこと。新たな進化、新たな種が住めるスペースを空けてもらうんだ」
「それも、アセルの仕事の一つなんだね」と僕は、ワラビのような野草を食べながら言った。
アセルは、恐竜から鳥の姿に形を変えていく。
「食べて減らすことなんて、滅多にないけれどね。三津が来ても食べないし」
僕はそこで、ある嫌な疑念が浮かんで唾を飲み込んでから、聞いた。
「ここで食べた、絶滅した生き物たちって、もしかして、地上でも」
アセルは鳥の姿から、花火のように弾けて気体になった。僕はその答えに、強い罪の意識を感じた。胃のあたりが黒く渦巻、吐き気が込み上げてくる。
それを察した2人は僕に「罪の意識を感じることはないよ。生きることは、そういうことなんだから」「絶滅の瞬間、その生物の役割や能力は最大化される。それが、進化のために大事なこと……」と声をかけたけど、それで何かが和らぐことはなかった。その日僕は何も食べなかった。
翌朝、持ってきたカバンに個包装された小さなミルフィーユと缶コーヒーが入っていることに気づく。お腹が空いて、ミルフィーユを1口齧る。薄い層の1枚1枚に、もう元には戻らない種の絶滅を感じて、それに宥めるかのような過剰な甘さに耐えきれず、コーヒー蓋を開けて、口から胃まで黒を流す。徐々に甘い記憶は忘却されていった。
そして中村と敷島、父の顔が浮かんだ。別にもう会えなくてもいいかなと思っていた人たちへ、急に会いたい気持ちが募ってくる。同種としての、不思議な愛着が湧いてくる。
流宮にいる間、あの小説を書き終えて以来、僕は小説を書かねばいけない状態になかった。でも今、人間性が環境に適応して麻痺してしまう前に、抗わなければいけない気がした。地上にいた頃のように、小説を書く必要性に駆られている。部屋にこもる時間が、増えていった。
地上での数少ない思い出と、阿久原が見てきた人間世界の記憶を頼りに、色々な物語を書いた。父が子を守る家族の物語とか、いじめがない世界の物語とか、誰に見せられるものでもないけれど、罪を償うようにして、とにかく書いた。
書いているうちに、阿久原が地上にいないことの損失にも、視野が広がる。共に見た未来の中で、彼女は地上で、たくさんの人を助けてきた。僕一人のためにここに籠っていていい人じゃない。僕は彼女を地上に帰さねばいけないという、使命感が芽生えてきた。
窓からは、象のような耳をした見たことのない大きなイカが、月の光に照らされて天の海の空高くまで浮遊していた。
何が変わるとも分からなかったけど、僕はあの小説の途中に、別れの歌を書いた。
共に地上に帰る方法は、その夜の夢に入る前、まどろみのなかで思いついた。そうなることは、ずっと前から決まっていたんだと思う。それは、阿久原が必ず僕の右側を歩くのと同じくらい、ずっと前から。確定的に。
時間は未来から過去に流れている、という言葉を思い出していた。赤と青の絵の具を混ぜた後、再び分離しない世界だから、ヒントはずっと前からあったんだと思う。愛しているからこそ、さようならがあるのだと悟った。
「そろそろ、帰ろうと思う」と二人に話した翌朝の朝食。その日は珈琲とパンという、満を持した朝食だった。アセルは何者にもならず、子どものままで、次の僕の言葉を待った。
阿久原を見ると、口を開こうとしていたけど、何かを信じるようにして、閉じていた。
「無時間流域で見たよ。KaMiになれる装置があるって」
「玉匣……」と阿久原は呟いた。
「流宮の中にあるよね、アセル」
アセルはゆっくり、悩みながら頷いた。
「僕がもしKaMiになれれば、KaMiの管理下どころか、一つになるわけだから、危険はなくなるはず」と言って、阿久原を見た。
「そう……でもそれは、人間としての君と、今生の別れになる。あの小説のことどころか、小説を書くということ自体も、記憶から消されてしまうかもしれない」
僕は朝食に一口もつけないまま
「そうしなくていいなら、それでいいんだ」と右頬を撫でた。
アセルは椅子から立ち上がって、部屋のドアを開けた。
「君が、決めたことだ」
僕らは部屋を出て、遺伝子時計の時計台の下に隠されていた、にじり口のトンネルを進んだ。トンネルを抜けると、海のように広い、真っ白なだけの空間が広がっていた。無数の窓から、溢れるほど十分な光が差し込んでいる。
天井には白い線画で胎蔵界曼荼羅が彫られていて、空間の中央には、巨大な白い神社が鎮座していた。
僕らは神社に向かって、まっすぐ進む。足音が残響して響いた。アセルは神鏡の前で八回、柏手を打つ。僕はその音で、少し意識が酩酊するような感覚を覚えた。気づくとアセルから阿久原へ、正方形の白い匣が渡されていた。
阿久原は、眉を下げて言った。
「これが玉匣。開けたら、一番近くの人間のBMIに接続されて、二四時間かけて、KaMiのプログラムがインストールされる……」
匣を受け取ろうと手を伸ばすと、阿久原は匣を持つ手を引いて、匣を抱えた。
「私は、あなたにこれを開けてほしくない」
静かな声だったが空間の端まで届いて、反響する。静寂を聴いてから、僕は口を開いた。
「別れの言葉ではないけれど、阿久原に言いそびれたことがたくさんある。まず、海でいじめられていた時、何も言えず、ごめん。見て見ぬ振りして、ごめん。ちゃんと話そうとしないで、ごめん」
阿久原は、弱った小動物を抱くように匣を抱えたまま、眉を下げて首を横に振った。
「小説を読んでくれているって知った時、嬉しかった。誰にも読まれてないと思ってたし、なんの価値もないものだと思っていたから、救われたって言ってくれて、嬉しかった。僕こそ、救われた」
阿久原は顔に力を入れて、首を横に振った。
「僕を連れ出してくれてありがとう。旅、とても楽しかった。ここまで連れてきてくれて、あの小説を最後まで書かせてくれて、読んでくれて、一緒に生きると言ってくれて、ありがとう」
「君と一つになりたくない。異なるままでいてほしい」と阿久原は、僕の言葉を止めるようにそう言った。
「君のことも、僕のことも、忘れない。それに」
僕は二人の顔を見たあと、穏やかな気持ちになって、話を続けた。
「それに、人じゃなくたって物語れるよ。阿久原も、アセルも。二人とも、世界のために、誰かのために尽くし続けてきた。そんな人が、物語を持たないはずがないよ。無時間流域で、阿久原の周りで起きていた、たくさんの物語を見てきた。そしてこれからも、多くの人と関わって、物語られていく。意味や価値をつくっているのは、君たちがいるからだよ」
クラゲのことを、ふと思い出していた。最後の一匹を食べて、送ること。物語ることは、たぶん、送ることでもある。それなら僕は、人間としての僕を、自分でちゃんと物語って、送りたかった。
僕は時間が欲しかったんじゃ、なかったのかもしれない。ずっと欲しかったのは、僕の時間を見ていてくれる誰かだった。そしてそれは——もう、いた。
三人の距離は、等間隔。アセルと、僕と、阿久原。三つの点が、一本の線の上に並んでいた。脳裏にあの祭りの最後の時間が、ふっと蘇った。揃わなくていい。並ぶだけで、じゅうぶんだった。この空白の間に、言葉以上のものが、結ばれていた。
「世界の中に、自分たちさえ入れてあげれば、そこに物語は生まれるから」と言って、僕は一歩踏み出した。
阿久原は俯いて、長い、長い沈黙のあと、顔を上げて、匣を差し出して、振り絞るようにして言った。
「……日数経て重ねた旅の記憶、私も忘れない。iTZUの世界でも、またあなたに逢いに行く」
それはあの小説に書いた別れの歌の返歌だった。全ては繋がっている。
「アセルも、長い間ずっと、僕たちを見守り続けてくれてありがとう。また必ず、会いに来る」
「何、ほんの一瞬さ。またいつでもおいで」とアセルが笑いながら、空中を回転する。
僕もつられて微笑んで、そのまま匣を見て、開けた。
黄昏時の港。墨吉の岸。雑多に停泊する舟。春の日の霞がたなびく日に、一隻の船が、海へ旅立った。
後ろ影は水平線の点になり、引き波は光の帯のように輝き、泡と残光が消えても、まだ名残惜しい美しさだった。舟がどこに旅立ったのか、知る人は一人もいなかった。海のなかに、融けていったのかもしれない。一隻分空いた海面にゆらぐ波は、始まりと終わりの境目もなく、ただ潮風と共に安らかな音色を、途切れることなく発していた。
日が落ちきる間際、岸辺の岩の上で、光が瞬いた。
トン・ツー
私たちは光を返した。
トン・ツーツー・トン
海は空の満月を反射して、雲は山の方に吸い込まれていった。
釣り船が揺れ動いているのを見ると、自然と、あの古の話を思い出す。